よさこいトリビア
Version 2005.10
- 武政英策氏作詞作曲の「よさこい鳴子踊り」はわずか5日間で制作された。
よさこい祭りの開催が8月10日と11日に決定。1954年6月25日(金)に高知商工会議所観光部会の濱口八郎氏が武政英策氏を訪ね、「7月1日から練習を始めないと間に合わない。阿波踊りに負けないようなものを歌詞も曲もすべて考えて下さい」と依頼しました※。武政氏はその日の夜から制作を始め、鳴子を使うことを思い立ち、実際に振って音を確かめながら作曲したそうです。
【追記】
※『よさこい祭り20年史』に武政英策氏自身の文章で、濱口氏の依頼について以下のように記述されていました。
「祭りは8月10日、11日と決まったので、7月1日から練習を始めんと間に合わん。ひとつ隣の阿波踊りに負けんようなものを、歌詞も曲もいっさいおまさんが考えとおせ」 - 「よさこい鳴子踊り」の歌詞に出てくる「じんま」「ばんば」は敬老精神に反するという批判を受けたことがある。
振興会内部や新聞の投稿で「じんま」「ばんば」ではなく「じいさん」「ばあさん」にするべきではないか、などの意見が結構多く出ていました。武政英策氏は「気に入らなければ変えたら良い。良いものは残るし、悪いものは自然に消えていく」と“柳に風”の如く聞き流したといいます。
- よさこい祭りのかけ声「よっちょれ」に批判が続出したことがある。
「じんま」「ばんば」と同じく批判を受けたのが「よっちょれ」。これも「どいていろ!」というニュアンスに聞こえなくもないです(というか、そういう意味ですが)。あまりにも乱暴だという訳です。今にして思えば、方言に対する一種の偏見が根底にあったように思います。今は「地方の時代」とか呼ばれていて、逆に見直されていますけどね。
- 武政英策氏は作曲した「よさこい鳴子踊り」が気に入らなかったので別バージョンを作って映画のロケで使った。
武政英策氏は、最初8ビートで作曲することを考えました。しかし、振興会が振り付けを日本舞踊のお師匠さんたちに依頼した後だったので、日本舞踊に合うように4ビートで作曲せざるを得なかったのです。その後「南国土佐を後にして」(武政英策作詞作曲)がヒットし、同名の映画が製作されることになって、その1シーンで「よさこい鳴子踊り」を披露することになり、サンバ調の曲を改めて作曲し(※追記参照)、高知商業高校の女生徒100人をエキストラにして撮影しました。
よさこい祭りを生み出した武政氏自身がそれを打ち破って新しいものを創造する、そういう仕掛けが「よさこい鳴子踊り」に内在していた、というのは興味深い事実です。【追記】
実物を目にしていないので確実な情報ではありませんが、1954年(第1回よさこい祭りが開催された年)に発売されたレコードで、A面には正調よさこい鳴子踊りが録音されていますが、B面にはサンバ調の曲が収められているとのことです。
映画の「南国土佐を後にして」は1959年の公開ですから、サンバ調の曲は武政氏が最初から作曲していたことになります。 - よさこい祭りの開催日を8月10日と11日にするには侃々諤々(かんかんがくがく)の議論があった。
商店街の夏枯れ対策も一つの理由として企画されたよさこい祭りですが、8月10日と11日の前後は早稲の収穫期で農業関係者は忙しかったのです。そこで商店街は、より多くの人出を見込める旧盆または日曜日に開催するよう主張しました。しかし、振興会は「期日が毎年変わると観光客を呼び辛い」「過去の気象データから降雨が少ない」という理由で従来の日取りを主張。第6回よさこい祭り直前は両者の主張が平行線をたどり、高知市が斡旋に乗り出す事態になりました。結局、第6回よさこい祭りも予定通り10日・11日に開催され、その後も同じ日程で続けられることになりました。
※台風災害などの理由で期日を変更したことはある。(1963年・第10回、1972年・第19回) - よさこい祭り発足当時は祭り期間中銀行が臨時休業になった。
当時のよさこい祭振興会から高知県銀行協会に「一斉休業依頼文書」が出されています(よさこい祭りの日程は日付固定なので、土日開催でない場合が多い)。現在の常識で考えると理由が分からないのですが・・・。まぁキャッシュカードもATMも無い時代ですから。
想像ですが、銀行を休みにすれば企業も休みになり、従業員が踊り子として参加し易くなる→祭りの振興につながる、という論理かもしれません。 - よさこい祭りをストリート踊り形式で実施することに対して警察から禁止命令が出たことがある。
1957年の第4回よさこい祭りの時のことです。この時は道路使用許可が警察から出ず、ステージ形式のみでの競演になりました。その前年に、踊り子隊に観客が合流し沿道を埋め尽くしたため、交通の妨げになるという出来事がありました。このことを理由に「集団で踊り歩くのはまかりならぬ」となったわけです。
ただ、この年は逆に参加者が増え、地方車が登場、接待所が設けられるなど、後々のよさこい祭りの環境を整える枠組みが出来上がりました。転んでもただは起きない土佐人の心意気を感じます。 - 実はよさこい祭り初期の頃に前夜祭が開催されていた。
1961年第8回から1971年第18回まで毎年開催されています。この当時は今のように中央公園で前年度受賞チームの演舞をするのではなく、限られた競演場でいくつかのチームが踊る形式だったようです。呼称も「前夜祭」のほか、「市民祭」などとも呼ばれていました。この他に、水上ボートとか、花火大会などを絡めた企画が行われています。
ちなみに、今の形式の前夜祭が始まったのは1991年第38回よさこい祭りの時からです。 - 北海道で「よさこい鳴子踊り」が踊られたのは札幌市が最初ではない。
北海道のよさこい祭り関連のイベントと言えば、1992年から始まった札幌市の「YOSAKOIソーラン祭り」ですが、実は北海道恵庭市で「恵庭すずらん踊り」が開催されていて、ここで1973年から「よさこい鳴子踊り」を模した踊りが毎年踊られています。
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過去最大のチーム参加者数は800名である。
そのチームは、1982年の第29回よさこい祭り、および1983年の第30回よさこい祭りに出場した「高知市子供会連合会」です。しかし、数百人もの子供たちをどうやって“引率”したのでしょう・・・。私なんか、甥っ子2人で手一杯なのに。
ところで、第29回よさこい祭りの全参加者数は8,000名ですので、10人に1人が 「高知市子供会連合会」のチームに所属していたことになります。
ちなみに、現在はルールで1チームあたり参加者の上限が150名までと決められているので、この記録は破られることはありません。たぶん。※第3回、第10回、第14回、第15回、第16回、第17回、第18回のよさこい祭りでは、出場者数の記録が取られていないため、それらの回を除く開催での最大数となります。
※記録では、「高知市民憲章踊り子隊」が第24回よさこい祭りで参加者数2,000名となっています。また、現在そのチームを受け継ぐ「市民憲章よさこい踊り子隊」は出場チーム表では150名となっていますが、その趣旨に則って例外的に人数制限を設けていません。1,000名を超える参加者がいる模様です。
- 過去最小のチーム参加者数は4名である。
そのチームは、2000年の第47回よさこい祭りに出場した「みちことななえとひとみちゃん」(踊り子3名+先導ラジカセ自転車担当1名)。新聞でも大きく報道され、話題になりました。いろいろ苦労もあったそうですが、その発想に拍手を贈りたいと思います。
ちなみに、現在はルールで“著しく少ない人数での参加”はエントリーできない場合がある、ということになっています。具体的に何名かは分かりませんが・・・。
○参考文献
よさこい祭り20年史 | よさこい祭振興会 |
よさこい祭り30年 | 高知新聞社 |
よさこい祭り40年 | よさこい祭り40周年記念史実行委員会 |
よさこい祭り50年 | よさこい祭振興会 |